江戸時代の頼母子講は、庶民金融の相互扶助組織で、経済的講の一形態。禁止令が出ても存続し、賭博的性格が問題視されました。
この制度は、町や村の人々が掛け金を出し合い、くじや入札によって配当を得る仕組みを持ち、信者同士の組織も含まれていました。
歴史作家の島崎晋氏は、「投資」と「リスクマネジメント」の観点からこの講システムを分析しています。
封建時代の武士が主従関係を重んじる一方で、一般庶民は地縁・血縁に加え、相互扶助のための「講」を形成しました。
「講」は信仰的、経済的、職業的に分類され、経済的講の中でも特に古いとされるのが頼母子講です。
その起源は鎌倉時代に遡り、貨幣経済の浸透とともに発展しました。
頼母子講は無尽講とも呼ばれ、参加者が会合で懸銭を出し合い、抽選や入札で配当を受ける仕組みです。
この制度は本来、相互扶助を目的としていましたが、江戸時代には幕府や藩から禁止令が出されることが多く、賭博的な性格や一揆の温床になる危険が懸念されました。
それにもかかわらず、頼母子講は近代まで存続し、参加者たちは摘発を逃れるための工夫を凝らしていました。
近世史を専門とする横田冬彦教授も、この制度の持続性について言及しています。
頼母子講は、単なる金融手段にとどまらず、当時の社会構造や人々の生活に深く根ざした重要な制度であったことがわかります。
参考リンクhttps://news.yahoo.co.jp/articles/19f1cdb0389b090e44ed4ec51162a81a1f6509b8
江戸時代の庶民金融「頼母子講」に関するコメントは、当時の人々の生活や金融制度の実態を多角的に描写していました。
たとえば、岩手の雫石の民俗資料館で展示された明治初期の伊勢講の報告書は、旅行の詳細な記録が残されており、行けなかった人々がどのようにその体験を楽しんでいたかを示していました。
特に、徒歩での旅行や宿泊先、費用の使い道が明確に記録されており、昔の人々がどのようにして楽しみを見出していたのかが伺えました。
昔の農民たちは貧乏で地元の祭りしか楽しめないというイメージとは裏腹に、広い範囲を旅行していたことがわかりました。
さらに、頼母子講の話からは、昔の人々の頼もしさや、地域間のつながりが感じられました。
金融制度に関しても、専門的な商人でないためにトラブルが起きやすかったことや、江戸時代には証拠がほとんどない中での運営が難しかったことも指摘されていました。
また、講を装った詐欺のリスクや、地縁血縁に基づく制度の信頼性についても言及され、頼母子講の多面的な側面が浮き彫りになりました。
現在でも「模合」として存在する沖縄の事例や、最近の「政党」との類似性についても触れられ、歴史が現代にも影響を与えていることが感じられました。
ネットコメントを一部抜粋
岩手の雫石の民俗資料館で、明治初期の伊勢講の報告書が展示されていて興味深かった。
昔の田舎の農民は貧乏で、地元の祭りしか楽しみがなく、他地域のことも知らない、…などということは全然無い。
地縁血縁の信用に基づいた基金制度でしたが、講を装った詐欺等のリスクも伴っていたようです。
沖縄では現在でも「模合」として行われています。
最近も「政党」という「頼母子講」が流行っています。