大河ドラマ「光る君へ」で道長の「望月の歌」が新たに解釈され、視聴者に深い感銘を与えています。
このエピソードでは、道長が栄華を極めた夜に詠まれたこの歌が、視聴者に新たな解釈をもたらしています。
平安文学を愛する編集者のたらればさんは、ドラマを通じて歌の解釈が広がったと述べています。
特に、道長の次女である妍子が「父上と兄上以外、めでたいと思っておる者はおりません」と言い放つ場面では、暗い雰囲気の中で「望月の歌」が詠まれ、これまでの解釈とは異なる印象を与えました。
視聴者は、道長の歌が自分の栄華を誇示するものではなく、無力感や諦観を感じさせるものであることに気づかされました。
水野梓編集長も、道長の歌がこれまでのように「我が物顔」で詠まれたのではなく、悲しみに満ちた描かれ方であることに驚きを隠せません。
さらに、道長の息子である頼通が舞った「青海波」のシーンも、もっと喜びに満ちたものだと予想されていたため、視聴者にとって新鮮な驚きとなりました。
たらればさんは、この描写が道長の政治的な行動が娘たちを含む誰も幸せにしなかったかもしれないという解釈を可能にしたとし、脚本の大石静氏の手腕に感心しています。
ドラマを通じて、道長の「望月の歌」は新たな視点を持つことができ、多くの視聴者に深い感銘を与える結果となりました。
参考リンクhttps://news.yahoo.co.jp/articles/0e64f04a3c8ca46056b48b5981360ba5694fe1be
コメントでは、ドラマ「光る君へ」における道長の「望月の歌」の解釈に関する多様な視点が表現されました。
特に、まひろさんが光源氏の気持ちについて答えない姿勢は、ロラン・バルトの「作品の意味は作者の手を離れた時点で多様な解釈に開かれる」という哲学的な考え方を反映していると指摘されました。
また、ジャック・デリダのテクスト論に基づき、文学作品は特定の解釈や結論に固定されず、常に新しい意味を生み出すものであるとの意見もありました。
これにより、視聴者は作品を主体的に楽しむことができると感じたようです。
さらに、和歌の位置づけや歴史的背景についての意見もあり、ドラマが和歌をどのように描いているかが評価されましたが、歴史的な関連付けには限界があるとの意見もありました。
最後に、解説者の立場についての意見もあり、解説の中立性について疑問を呈するコメントも見受けられました。
全体として、視聴者は作品に対する多様な解釈を楽しむことができたと感じている様子が伺えました。
ネットコメントを一部抜粋
ドラマの中で、まひろさんは、どなたに光源氏の気持ちを聞かれても、ニコニコと微笑むだけで、決して答えることはありません。
観る人が、色々な受け取り方ができて、色々な解釈ができる。
このドラマの中での和歌の位置づけとしてはいい描き方をしたと思います。
記事トップの画像。
道長さんが建立した、藤原家供養のための寺院は、すでに無くなったのですね。
この解説者は清少納言派で中関白家贔屓、道長嫌いで紫式部を敵視しているから、中立の解説には無理がありますね。