藤原道長の栄華と病、出家への道のりを描いた記事。
藤原道長は、1018年10月16日に三女・藤原威子が後一条天皇に入内した際に詠んだ有名な歌「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」に象徴されるように、彼の時代は栄華の絶頂にありました。
道長は、三后をすべて自分の娘で占めるという華やかな生活を送っていました。
しかし、その背後には病が影を落としていました。
道長は、視力の低下をはじめとする健康問題に悩まされ、日記『小右記』に記されたように、他人の顔も見えない状態にまで至りました。
12月には、他人との対面を減らすことを考えるほど気力も減退し、年が明けた1019年2月には一時的な失神状態に陥るなど、健康の悪化が続きました。
3月中旬には胸の病による発作が発生し、道長は長年の願望であった出家を決意。
3月21日には天台宗の僧侶に戒を受け、出家しました。
道長の死の直前には、息子や娘が次々と亡くなるという不幸も重なり、彼の栄華の影に潜む厳しい現実が浮かび上がります。
参考リンクhttps://news.yahoo.co.jp/articles/11e306bd87219c0d6ba6927e943eca78d031339a
藤原道長の最期と出家の決断に関するコメントは、彼の歴史的な役割や晩年の苦境についてのさまざまな意見が寄せられました。
多くのコメントでは、道長が権力闘争を経て摂関政治を確立し、王朝時代の全盛期を築いたことが評価されていました。
その一方で、彼の晩年における神仏への過度な帰依や自己肥大化についても言及され、歴史的人物の人間性を問うことには意味を感じないという意見も見受けられました。
また、道長が病気に苦しんでいたことや、糖尿病による身体的な苦痛についても触れられ、当時の医療事情や寿命についての考察もありました。
さらに、道長の子供たちの早逝や長寿についても言及され、彼の家系の特徴が興味深く語られていました。
全体的に、道長の人生や彼が残した影響について、歴史的な視点からの考察が多く見られました。
ネットコメントを一部抜粋
病気平癒の祈祷は、道長によると、自分を「悪道」に落とすことに等しいからやめてくれというのです。
念仏以外の信仰を「悪道」と捉えるのは、後世の法然、親鸞と同じ。
藤原道長の晩年は糖尿病だったから、失明や身体の壊死が起きていたのでしょう。
道長の子供は早逝したのと長寿だったのが居て、結構両極端な印象がある。
毎晩、宴を開いて、酒と美味しいもの食べすぎたんでしょ。