国会議事堂の設計背景と歴史を探る、重要な人々のドラマとは
要約すると日本の近代建築は明治維新を機に、ジョサイア・コンドルの指導のもとで始まりました。
特に国会議事堂は、その設計において多くのドラマを秘めています。
新政府は、日本が欧米諸国に劣らない近代国家であることを示すため、国会議事堂の必要性を認識しました。
そこで、ドイツから派遣された建築家エンデとベックマンが、霞ヶ関に国会議事堂を含む官庁集中計画を設計しました。
明治19年には、技術者をドイツに派遣し、建築技術を学ばせましたが、予算不足から木造の仮建築で対応せざるを得ませんでした。
最初の仮議事堂は明治23年に完成したものの、翌年に焼失。
その後も仮議事堂が建設されましたが、いずれも焼失してしまいました。
昭和11年に本建築が完成するまで、数度の仮建築が行われ、設計には矢橋賢吉と大熊喜邦が関与しました。
彼らは、妻木頼黄が育てた技術者たちによる支援を受け、全国の石材や木材の調査を行い、設計を進めました。
大正7年には本格的な議事堂建設の機運が高まり、辰野金吾が設計の公募を提案し、118通の応募から選ばれた渡邉福三が一等に選ばれました。
しかし、彼は大正9年に死去し、実際の設計は臨時議院建築局が進めることになりました。
さらに、影響力のあった妻木も大正5年に死去し、辰野もコンペの最中に亡くなりました。
これらの出来事が、国会議事堂の設計者の輪郭を曖昧にしています。
このように、国会議事堂の設計には多くの人々の努力と悲劇が織り交ぜられており、その背景を知ることで、建物の意義がより深まります。
参考リンクhttps://news.yahoo.co.jp/articles/f3f15fde38635614f50908cbbd5c1d237bfe1749