幕末の人材登用術を解説。明治政府は敵でも優秀な人材を要職に登用し、国の発展に貢献させた。
明治政府が1869年に設立した兵部省は、海軍力の整備を最重要課題としており、海軍士官を育成するために海軍操練所を東京・築地に開設しました。
この背景には、徳川幕府が海防の必要性を認識し、長崎海軍伝習所を設立したことがあります。
勝海舟はオランダから海軍を学び、後に海軍操練所を神戸に設立しました。
明治政府は、海軍操練所を海軍兵学寮に改称し、オランダ海軍が日本海軍の「生みの親」となり、明治維新後は英国海軍が「育ての親」となりました。
兵部省が廃止された後、海軍省と陸軍省が新設され、勝海舟が初代海軍卿に就任します。
特筆すべきは、榎本武揚が第3代海軍卿に就任したことで、彼は戊辰戦争で旧幕府軍を率いて新政府軍と戦った人物です。
明治政府は、かつて敵として戦った者でも優秀な人材を要職に登用し、国家のために貢献させる方針を持っていました。
また、薩摩藩主・島津斉彬の人材登用術も重要で、彼は1860年に米国に派遣された「咸臨丸」に乗船したジョン万次郎に目をつけ、彼の知識や英語力を重用しました。
ジョン万次郎の存在が、日米修好通商条約の批准やその後の交渉に大きな影響を与えたことは明らかです。
島津斉彬は、身分に関係なく優れた能力を持つ人材を登用することで、日本の発展に寄与しました。
参考リンクhttps://news.yahoo.co.jp/articles/ca3a79c205d6ff35e847aa6d9ba9ebe53984286a
コメントの内容は、幕末の人材登用術について多面的な視点からの意見が寄せられていました。
特に、長州藩や薩摩藩の下級武士たちが新政府で権力を握った背景には、幕府の官僚や教育を受けた人々の存在が大きく影響していたことが強調されていました。
また、明治政府が徳川幕府の官僚統治機構を受け継いでおり、その中で多くの優秀な人材が活躍していたことも指摘されていました。
さらに、維新の志士たちがクーデターを起こしただけではなく、江戸時代に蓄積された文化的、知的、人的資産が近代化を可能にしたとの意見もありました。
加えて、戦国時代からの戦のルールを踏襲した明治政府の人事政策や、敵をも重用する考え方が現代には薄れているとの意見も見受けられました。
全体として、幕末から明治にかけての人材登用については、多様な視点からの評価があり、単なる勝者の物語ではないという理解が広がっているようでした。
ネットコメントを一部抜粋
元々畑違いの医者であった村田蔵六、のちの陸軍の青写真を描いた大村益次郎です。
新政府の役に就いた下級武士たちの権勢欲、名誉欲を満たす政策を献策したのが幕臣であった官僚ですね。
明治政府は「徳川の官僚統治機構の上に」築かれており、福井藩士由利公正なども活躍しました。
維新の志士達は時代の流れに乗ってクーデターを起こしただけで、日本の近代化を真に可能にしたのは、江戸時代を通して蓄えられた資産でした。
明治政府は方針として「若者を勉強させるしか日本が生き残る道はないぜ!」と結論づけた。