1960年代の日本プロ野球における巨人と阪神のライバル関係、村山実の挑戦とその背景を紹介しています。
巨人は長嶋茂雄のもとでV9を達成し、「ドジャース戦法」を駆使して連覇を果たしました。
一方、阪神は村山実が1970年に投手兼任監督に就任し、巨人に対抗する意気込みを見せました。
村山は、東京から大阪に転勤した筆者に対し、自身の部屋で「野球教書」を見せながら、サンフランシスコ・ジャイアンツの戦法を参考にして練習していることを明かしました。
これは、巨人がドジャースなら自分はジャイアンツであるという強い闘志の表れでした。
教書には基本練習が記されており、阪神にはウィリー・カークランドという外国人選手が在籍していました。
村山は、ジャイアンツ戦法について明言しなかったものの、巨人に勝つことができず、優勝を逃した結果、3年契約の途中で指揮権を奪われるという苦境に立たされました。
村山の采配は、時に空回りすることもあったが、彼の挑戦は記憶に残るものでした。
このように、巨人と阪神の関係は、プロ野球の歴史の中で重要な位置を占めており、村山の情熱と努力は、今なお多くのファンに愛されています。
参考リンクhttps://news.yahoo.co.jp/articles/b974eb07a9a18ffe8e69273a407990a37162d20f
村山実は真の熱血漢であり、彼の男らしさや人間味に触れるコメントが多く寄せられていました。
特に、震災30年を迎える年の選抜時に発した「この兵庫に入って来なくても今年は東京ドームでやればいいんです」との冷静なコメントは、多くの人に感銘を与えたようです。
また、引退後も阪神で挫折した投手たちの面倒を見ており、速球投手としての道半ばで引退した選手たちを自身が役員を務める運動具メーカーに入社させたことも称賛されていました。
彼の存在は、若手選手たちにとっての大きな支えとなったようです。
さらに、巨人との天覧試合でのエピソードや、花形からのアドバイスを受けて喜ぶ姿など、村山の熱い性格が多くの思い出として語られていました。
現代の選手たちに対して、闘志剥き出しの姿勢が少なくなったことを寂しく思う声もあり、村山のような存在が求められていると感じる人が多かったようです。