1969年に400勝を達成した金田正一が、クーパーズタウンにボールを寄贈し、野球殿堂入りを果たした歴史的な出来事について紹介しています。
金田は「黄金の左腕」として知られ、彼の400勝を記念するボールがニューヨーク州クーパーズタウンの野球殿堂に最初に入ったことは、日本球界にとって特筆すべき出来事です。
1975年には、金田に対してクーパーズタウンから招待状が届き、彼の偉業を祝うためのパーティーに出席することになりました。
この知らせに金田は驚き、頬をつねって信じられない思いを抱きました。
羽田空港でボールを入れたアタッシェケースを持って現れた金田は、子供のような笑顔を浮かべて出発しました。
帰国後、彼は表彰式でヤンキースのエースや捕手と再会し、日米野球での思い出を語りながら、野球をやっていて良かったと感慨深い気持ちを表現しました。
また、金田が400勝を達成した年は、巨人の最後の年でもあり、当時の日本の野球殿堂は彼に対して無関心であったことが強調されています。
しかし、その後、金田の名声は米国でも広まり、ヤンキースの名選手ジョー・ディマジオがロッテのキャンプを訪れるほどの影響力を持つようになりました。
この記事は、金田正一の偉業がいかに日本とアメリカの野球界において重要であったかを伝えるものとなっています。
参考リンクhttps://news.yahoo.co.jp/articles/0ca40e8597acc7d2ba23a5e68e36c8489dcb6bb0
金田正一の400勝ボールが野球殿堂に入ったことに対し、ネットのコメントでは彼の偉大さやその記録の重要性が多くの人に称賛されていました。
特に、金田選手が当時の弱い国鉄スワローズで350勝を挙げたことや、その奪三振数が飛び抜けていることが評価されていました。
また、もし彼が全盛期にメジャーリーグでプレーしていたら、さらなる勝利を収めていたのではないかという意見も多く見受けられました。
さらに、YouTubeに残っているインタビューでは、彼が速球だけでなく、変化球や緩急の大切さを説いていたことが取り上げられ、彼の投球技術の高さが改めて認識されていました。
ダブルヘッダーでの完投勝利のエピソードも多くの人に感銘を与え、彼が「スワローズの天皇」と称される理由が明らかになっていました。
コメントの中には、彼が170キロの球速を出していたという逸話もあり、現代の選手たちと比較してもその記録の凄さが際立っていました。
最後に、当時の日本野球がまだ世間に認められていない時期であったことも指摘され、金田選手の偉業が今なお輝いていることが強調されていました。
ネットコメントを一部抜粋
400勝に関して色々言う人もいるけど、当時めちゃくちゃ弱い国鉄スワローズで350勝してるんだから、その価値は計り知れない。
YouTubeに残っているインタビューを見ると、ただ速い球を投げるのではなく直球の質や変化球や金田さん曰く緩い球なども織り交ぜる緩急の重要性も説いていましたね。
ダブルヘッダーで、1試合目に自分が完投勝利した後、次の試合で別の投手が4回2アウトまで抑えたら、また金田が出て一日2勝を何度もやったそうだ。
ずっとONをバックに投げていたら、たぶん世界記録を更新していただろう。
「世界の」殿堂で表彰される値打ちは十分にある。
ワシは170キロ出てたって本人言ってましたからね笑