日米友好の裏側を探る「写真壁新聞」の役割

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

戦時中の日本での「写真壁新聞」が、日米友好をどのように伝えていたのかを探る記事です。開戦間際の状況や、メディアの役割について詳しく解説しています。

要約すると戦時中、日本人が触れていたメディアには、新聞や雑誌、ラジオのほかに「写真壁新聞」がありました。

このメディアは、国家の意思が色濃く反映されており、国内外の情勢を独自の視点で伝えていました。

本記事では、特に日米関係に焦点を当て、開戦間際の状況を詳しく解説しています。

1936年には、ワシントンでの「クリスマスと新年の挨拶を送る会」が報じられ、駐米大使の令嬢が和服で出席した様子が描かれました。

この時期、日米関係は良好であり、アメリカの独立記念日には芸術の交換放送が行われるなど、友好的な交流が続いていました。

日中戦争が始まった後も、写真壁新聞は対米感情に変化がないことを示す記事を掲載し続けました。

例えば、1938年にはアメリカの女性客室乗務員の写真が掲載され、日米友好の雰囲気が伝えられました。

また、1939年には米艦アストリア号が日本に訪れ、斎藤前駐米大使の遺骨を故国に護送するという儀式が行われました。

この出来事は、日米友好を強調する機会となり、写真壁新聞もその様子を詳しく報じました。

アストリア号の到着を祝うセレモニーや、乗組員が靖国神社に敬意を表する姿が掲載され、当時の日本における日米関係の複雑さが浮き彫りになりました。

この記事は、戦争の影で揺れ動く政治的な意思と、一般市民に伝えられたメディアの影響を考察する重要な資料となっています。

参考リンクhttps://news.yahoo.co.jp/articles/f3b25b06538a8431b32b5317b8b4fcd11406296a

ネットのコメント

ネットのコメントでは、日米友好の裏側や戦前の日本に関する多様な意見が寄せられました。

まず、戦争に関する意見として、当時の若手エリートが戦争の初戦勝利を見込んでいたものの、長期戦になると物量差によって負けると予測していたことが触れられました。

しかし、実際には初戦の成功体験が逆に戦争を続ける要因となり、大きなダメージを受ける結果になったという意見がありました。

次に、戦前の文化についても言及があり、昭和100年を祝う中で、戦前の歌謡曲や軍歌が意識的に取り上げられない現状を憂う声がありました。

これにより、当時の日本や世界で何が起こっていたのかを再評価する必要があるとの意見がありました。

また、親善人形の話題もあり、国際的な交流の一環として日本人形が贈られたことが紹介されました。

さらに、戦争を煽る意見があった当時の状況や、戦争の終わらせ方についての疑問も呈され、戦争を始めることは容易でも、終わらせることは難しいという点が強調されました。

戦後80年を経て、日本が米国の影響下にあることや、戦争の勝利が後の不幸につながったという見解も示され、歴史を学ぶことの重要性が再認識されました。

ネットコメントを一部抜粋

  • 当時の若手エリートが集まった総力戦研究所は、初戦の勝利は見込まれるが、長期戦になれば物量差によって必ず負けると提言していました。

  • 最近昭和100年と題した歌をTV番組で取り上げていますが、なぜか戦前は置き去りにされています。

  • 本文中にドイツに人形を送ったとの記述がありますが、これは親善人形と呼ばれるもので、世界各国に日本人形を送りました。

  • 戦前戦争を煽っていた人が本当に戦争をするとは思わなかったと言う意見を聞きました。

  • 戦後80年、米国は戦後から日本占領主権剥奪自由の無い国、日本列島は米軍の中国・ロシア北朝鮮監視の陸の航空母艦です。

関連URL

2025年最新!戦争のニュースに関するまとめ

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSでもご購読できます。